広瀬エリア 広瀬絣伝習所長 永田佳子さん

 

島根県安来市広瀬町には、日本を代表する伝統工芸、広瀬絣(ひろせがすり) がある。

絣は、糸を括(くく)り染めた経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を織りあげ、独自の文様を表す織物。糸を括ることで文様の輪郭部がかすれて見えるので「かすり」と呼ばれている。そして、「染」と「織」の巧な技法から生まれるこのズレこそが、絣の美しさなのである。

シリーズ第1回目は、島根県指定無形文化財保持者、広瀬絣伝習所所長である永田佳子さんをゲストにお迎えし、広瀬絣の歴史と魅力をお聞きしました。

 

 

隊員:この企画は安来の魅力的なアングルを訪れ、そこでくらし、生業を営む人々のストーリーにフォーカスしていこうというものです。まずは広瀬絣の歴史と変遷からお話をお聞かせください。

 

永田:はい、広瀬絣の歴史は江戸時代まで遡ります。はじまりは今から200年前の江戸末期、文政7年とされています。そして最盛期は明治中期と言われています。その頃の生産量は年間で約13万反。例えば現在の広瀬町の人口は約9千人ですが、その町民全員が1ヶ月に1反ずつ織ったとしても、当時の出荷量には全然足りないくらいです。最盛期には全国に多くの広瀬絣が出回っていたんだそうです。

 

隊員:なるほど。当時絣は庶民の中ではどういう存在だったのですか?

 

 

永田:当時は今とはちがい、着るものなどはもちろん贅沢ができない時代です。江戸時代の頃は奢侈禁止令(しゃしきんしれい)といって、幕府が士農工商を問わず贅沢を禁止していたわけでそういう時代背景もあり、庶民の服装なども当然地味です。自前で棉(わた)を作り、糸を紡いで織った縞や無地のものを着るといったことが当たり前に続いていたわけで。お洒落を楽しみたいという庶民の強い思いから、様々な絣の模様が生まれたわけです。庶民のファッションとして、すべての人に喜びを与えた広瀬絣は、生活のスタイルを変え、大変人気が出たのだと思います。

 

 

隊員:絣は当時の最先端の流行のファッションともいえる存在だったんですね。

 

永田:はい。そして、また興味深いのは広瀬絣の発展は、たたら製鉄と密接な関係があります。当時、現在の奥出雲町でたたら製鉄が盛んに行われていました。日本のほとんどの鉄が中国山地の奥出雲などで作られていました。そして当時の安来港は積み出し港として鉄を始め多くのものが北前船で出荷されていたわけです。広瀬は奥出雲と安来港の中間にある場所。奥出雲で作られた鉄は、当時鉄の街道を通過して安来港に運ばれていました。絣も安来港へと運ばれ、北前船に乗り、全国へと運ばれていったわけです。絣は鉄の歴史ととても関係が深いわけです。

 

 

隊員:時代背景と密接な関係があるところが本当に興味深いです。そんな中、広瀬絣が産業として衰退してしまったのはどうしてですか。

 

永田:時代は流れ、イギリスで産業革命が起こります。機械の登場です。日本も同様に手仕事から機械を導入した大量生産へと時代が移り変わります。大量生産の工場が生まれ、そしてその影響で繁栄期から徐々に衰退期へと変わっていきます。そして広瀬絣の衰退の決定打は、大正の大火といわれる大火事です。広瀬町のほとんどがその大火で焼失してしまい、絣の作業場や道具、織り機なども失い、広瀬絣は産業としては大打撃を受けました。

 

 

隊員:でも完全に技法が途切れてしまったわけではないんですよね。現にこうして平成の今もここにあるわけですから。

 

永田:はい。もちろんです。大正から昭和にはいり、時代はまだまだ裕福な時代ではありません。第2次世界大戦中などは、当然モノがなく貧しい時代ですよね。庶民はみんな自分の家で機(はた)を織り、自分たちの着るもんぺなど作っていました。産業としてはほとんどなくなってしまいましたが、各自が家庭では継承していたと言えます。

 

隊員:今でいうDIY(DO IT YOURSELF)ですね(笑)

 

永田:その後、時代は昭和30年頃から高度経済成長期に入り化学繊維が登場。安価で大量に作られるものに人々の需要は当然流されていきます。各家庭でも機(はた)を織らなくなり、残念ながら時代に絣は置き去りにされてしまうのです。

 

 

隊員:成長することが大きく求められる時代ですもんね。手間暇をかけ味わいと温かみのある100%オーガニック製品の絣は、安価で大量生産のケミカル製品に生産量の点ではどうしても負けてしまったということですね。

 

永田:はい。そういうことです。

 

隊員:永田先生のお話を伺いたいのですが、そのような時代の流れの中、絣に出会われた経緯を教えてください。

 

永田:私の場合は、絣がそこにあったんです。ただそこにあったの(笑)。私は広瀬町に今でいうUターンで戻ってきたんです。藍染業を生業としていた実家の父(※天野圭)がこの土地の伝統工芸である広瀬絣をやっていたんで、目の前に絣があったので。当時無形文化財保持者の認定を受けた先生方に手ほどきをいただき、その後は試行錯誤で学びました。

(※天野圭:昭和37年に「広瀬絣」が島根県指定無形文化財として認定。無形文化財保持者(藍染)として認定を受ける。同時に花谷初子、松田フサヲが無形文化財保持者(製織)として認定を受ける。)

 

隊員:現在の絣センターの原型はすでにあったということですか?

 

 

永田:はい。広瀬町が広瀬絣伝習所を昭和45年に作りました。その後、昭和56年2月に広瀬絣伝習所(天野圭所長)が再開され、昭和60年に広瀬絣センターが会館、現在へと至ります。ここは絣を通じて人と人がふれあい繋がりができるような場所になってほしいと思っています。多くの生徒さんへ日々絣の伝習を行い、そして初めて来られた方も楽しんでいただけるよう、甕場(かめば)で藍染体験ができます。開館当時と料金(ハンカチ1枚800円)は変わっていません。物産コーナーでは絣を中心とした広瀬町の伝統工芸品を展示、販売しています。

 

 

隊員:先ほど実際体験をさせていただきましたが、綺麗な染めの素敵なハンカチが仕上がりました。世代を超えて楽しめる素敵な体験だと思います。

最後に伺いたいのですが、永田さんのお話を通じて安来市に興味を持っていただける方々もいるかと思います。そして同時に今まで安来におられる方々も含め、そんな読者のみなさまへ永田佳子さんにとっての安来の最高なアングルを教えてください。

 

永田:安来のアングル…(しばし沈黙)。そうですね、私はやっぱりこの場所、広瀬が好きです。そしてその中でも富田川(飯梨川)にかかる富田橋からのアングルがすごく好きです。すごく綺麗な景色です。ぜひ実際にお越しいただきご覧になってほしいです。

 

隊員:永田さんの安来のアングル「富田川にかかる富田橋」を、この後渡って帰りますね。

 

 

 

プロフィール 永田佳子(ながたよしこ)

1951年島根県広瀬町生まれ。1973年広瀬絣の無形文化財保持者として認定を受ける父・天野圭に従事。広瀬絣の技法を学び、広瀬絣伝習所講師となる。2005年日本工芸会中国支部展日本工芸会賞受賞、島根県指定無形文化財保持者に認定。現在、広瀬絣伝習所所長として多くの人に技法や歴史を通して広瀬絣の魅力を伝える。